前九年合戦


前九年合戦

【ぜんくねんかっせん】

【戦史】


編集中

 平安時代後期、陸奥国(岩手県奥六郡)を支配増長していた豪族・安倍氏を平定するために起こった戦。11年に及ぶ戦いの後、陸奥守・源頼義により安倍氏は滅亡、加担していた藤原経清は斬首。この経清の息子が後の清原清衡である。

清原家の長い因縁の始まりでもある。


●鬼切部城趾

 永承5年(1050)陸奥の浮囚安部頼良(頼時)の代に鬼首高畑に築いた城跡である。

この城は前九年合戦(1051-1062)の戦場となったところで、 城は標高500mの広大な高原にあり北に軍沢川、東に荒雄川を見下し、 西と南は奥羽山脈につづく天嶮を利用した要害である。

 頼良はこの城を根拠地として、国司を無視した行動をとったので永承6年(1051)国司藤原登任が攻撃したが、 登任は敗れて都に逃げ帰った。 

頼良の子・貞任、宗任もこの城を根拠として、国府に従わなかったので、陸奥守鎮守府将軍・源頼義は長子・義家に征伐させた。 義家は花淵山から攻 め、天館の柵を落し鬼切部城に、安部一族を敗走させた。


●鶴脛柵跡(つるはぎのさくあと)

 前九年合戦(1051-1062)を記録した『陸奥話記』に『鶴脛、比與鳥(ひよどり)の二柵、同じく之を破る』とある鶴脛柵跡である。

 安倍氏の柵の一つで、安倍頼時の七子、鳥海弥三郎家任(菅江真澄の紀行文では鶴脛五郎家任と記述されている)がこの柵を守ったと伝えられている。

 遺跡は、西館・東館の呼称もあり、空壕や土塁が良好に保存されている。


●胆沢城とは

 延暦21年(802)、坂上田村麻呂がアテルイの本拠地『胆沢』に造営した古代の城柵です。

大同3年(808)までに陸奥国府多賀城から軍政を司る『鎮守府』が遷され、10世紀中ごろまで鎮守府胆沢城として機能しました。

 大正11年(1922)10月12日、平城宮跡などと共に国指定史跡に指定されました。平成23年(2011)には、胆沢城の南方にある伯済寺遺跡地区などが追加指定され、指定面積が554,472㎡となりました。


●国指定史跡 鳥海柵跡

 鳥海柵は、11世紀に奥六郡(伊沢(胆沢)、江刺、和我(和賀)、斯波(紫波)、薭縫(稗貫)、岩手郡の6つの郡。現在の岩手県奥州市から盛岡市)を支配していた安倍氏一族が築いた十二冊の一つです。

 主は安倍宗任(むねとう、安倍氏当主頼良の三男)といわれます。 

北上川と胆沢川に囲まれ、自然の沢による谷(開折谷)や段丘崖を巧みに利用し、人工の堀や列などの工作物で囲まれた中に大型の四面廂付建物、櫓状の建物など複数の建物に配置した防御性のある軍事的な拠点です。

鎮守府胆沢城(朝廷の機関、奥州市水沢区)に近く、当主瀬良が亡くなった地であることから、安倍氏にとって最重要拠点であったと考えられます。

 安倍氏一族は勢力拡大により陸奥守との間で前九年合戦 (1051~1062)が起こり、安倍氏一族は陸奥守兼鎮守府将軍・源頼義が率いる国府軍と戦います。9年にわたり合戦は続き、康平5年(1062)に出羽地方の豪族・清原氏が国府軍に加勢したことで、安倍氏は厨川柵(岩手県盛岡市と推定)で滅び、安倍宗任は捕らえられ九州へ流されました。

この戦いは『陸奥話記』や『前九年合戦絵詞』などに書き記されています。

指定:平成25年10月17日

管理者:金ヶ崎町


●説明板:

 奥羽の山々から流れてくる胆沢川を南に臨むこの地、金ヶ崎町西根鳥海地内に『鳥海柵』があります。古代東北で力を持った安倍氏の12の柵(城)の中で、唯一の明らかな柵跡です。

 柵は南北約500m、東西約300mの規模で東西にのびる数本の堀によって区画されています。発掘調査で、南端の島状の台地から柱列で区画された堀立立柱建物跡、櫓跡などが検出され、11世紀後半から12世紀の年代が与えられています。

また多くの遺物が出土し、墨で『五保』の記載がある貴重な土器も見つかっています。

 安倍氏と国府軍の間で起こった前九年合戦 (1051-1062)の最中、当主・安倍頼時はこの柵で亡くなりました。またこの柵に入 った将軍源頼義は『なかなか姿を 見ることができなかった鳥海柵にようやく入る事ができた』と感激したと伝えられます。 

胆沢川を挟んで南東方向約2㎞に鎮守府胆沢城があることからも、安倍氏にとって最重要拠点であったと考えられます。

 鳥海柵の主は、安倍頼時の3男・宗任といわれています。宗任は前九年の役 で敗れ京に送られました。その際公卿の一人が、田舎者は梅の花も見たことないだろうと、一枝折って「

これは何と言う名の花か」

と差し出したところ宗任は、


我が国の梅の花とは見たれども 大宮人はいかがいふらむ

(我が国の梅の花に見えるけれども、都の方々は何というのでしょうか)


と和歌で返したため、その教養や風流が高く評価されたと伝えられています。

また宗任の女(むすめ)は平泉の奥州藤原氏・2代基衡に嫁ぎ、三代秀衡の母となり、観自在界院(平成23年6月に世界遺産登録)を造りました。

平成23年8月 金ケ崎町



●説明板:

・豊田館

江刺市岩谷堂餅田

 藤原清衡力平泉に移る前に住んでいた所。

父経清の築城と伝えられている。


・極楽廃寺

北上市稲瀬町内門岡

 平安時代の山岳寺院で定額寺(準官寺)。

平泉以前中心地。



 天正20年(1592)、豊臣秀吉の命により、他の南部氏の諸城と共に破却された。


でわwiki関連リンク

◆参考書籍

・菅江真澄全集第

・菅江真澄遊覧記第 巻

/菅江真澄 内田武志・宮本常一翻訳

国立国会図書館デジタルコレクション

・秋田叢書 巻

・真澄紀行/菅江真澄資料センター
・各種標柱・説明板


最終更新:2023/3/ 31