紫根染め/茜染め


紫根染め/茜染め

【しこんぞめ/あかねぞめ】

【工芸】

鹿角郷土資料館より
鹿角郷土資料館より

編集中

 天明5年(1785)8月27日。《けふのせば布

花輪(鹿角市花輪町の里にでた。 この里をはじめ、この付近の生業として紫根染めがある。 これを染めるのに必ず、にしこほりという木の灰をいれるという。大里村(鹿角市)に至り、作山某とかいう家に泊まった。


※注釈:紫根染め

 紫を染めるにはムラサキ草を用いる。

根を染料として媒染としては南部産のニシゴリ(植物サワフタギ)の灰が一番よかった。日当たりのよいところにできたものをよく干し、焼いて灰をつくり、それで染めようとする布をよく煮て乾かし、次に紫根をよく干したものを石臼で砕き、布袋に入れ、熱湯をそそいで色素をだし、その中へ灰汁で煮た布を入れて染める。

ムラサキ草は南部、津軽に多く野生していた。


◆鹿角市郷土資料館:紫根染め


●説明板:染

 染物業は、福士川から良質の水が得られ、鹿角地域の名産とされた紫根染・茜染に加え、庶民向けの藍染も盛んに行われ、明治にかけて花輪には高い張り場をもった十軒余の紺屋がありました。

 紺屋は主に藍染を商売として、文政文化年間の頃から盛んに創業されました。周辺の村々の農民や下級武士の内職として『機織り』が行われ、染の注文が多くあったため多くの紺屋が営業しました。藍染は繊細な紋様の型染めだけでなく、無地染めや糸染めが主に作られました。

 大正以降になると藍に代わる化学染料の出現や麻から木綿への転換、安価な製品の流入などにより次第に衰えていきました。


○花輪の主な紺屋

・杉江紺屋(坂の上)

・与七紺屋(大町)

・佐七紺屋(谷地田町)

・源助紺屋・源太紺屋(六日町)

・善助紺屋(新町)

・五助紺屋(大町)

・百助紺屋(谷地田町)

 紫根染・茜染は、この地域に産する野生の紫や茜の根を染料に、ニシコオリの木の灰を媒染剤として染める鹿角地域を代表する染色技法です。

藩政期には藩の特産物として紫根が取り扱われました。延享元年(1744)に領内物産を書き上げた記録には

「根は所々に産するも、紫染は鹿角郡を上品とす」

と記されてい ます。

 紋様は無地染めが多かったようですが、大枡・小枡・立枠の3種の絞り紋様柄も染められました。

大正に入ると栗山家では花輪柄が考案され、4種の絞り紋様柄を染めていました。


○主な染物屋

・角昌(大町)

・高初呉服店(谷地田町)

・ 栗山呉服店(坂の上→中堰向)

・小田切由兵衛・亀次(谷地田町)

・小田切猪太郎(坂の上)

『出典』鹿角市史、鹿角市文化財調査資料108集 藍染の型紙/109集 古代かづの紫根染め・茜染資料


●説明板:鹿角紫根・茜染と栗山家

 ロ伝では、 紫根染・茜染の技法は奈良時代に伝わり、歴代の盛岡藩主に手厚く保護され時には天皇への献上品にもなりました。

 延享元年(1744)に盛岡藩領内の特産物を書き上げた記録には、

「紫根、 紫草は所々より産す。紫根は鹿角郡を上品とす」

と記載されています。

 また、江戸時代の紀行家・菅江真澄も《けふのせはのの》で鹿角の特産品として書き残しています。

 幕末期には紫根染・茜染を営む染物屋が花輪に10軒、毛馬内に4軒存在していたといわれていますが、大正7年(1918)には花輪では4軒と半減しました。この中で、古代染色技法を伝承してきたのが栗山文次郎・文一郎の父子で、文一郎が亡くなる平成3年まで守り抜きました。

 展示している作品(袱紗)は文一郎没後に、染色道具一式は平成26年に鹿角市へ寄贈されたもので、市の有形民俗文化財に指定されています。


●説明板:絞り柄の解説

 過去において、さまざまな絞り模(柄)がなされてきたが、先代文次郎が明治末期から大正初期にかけて復興するに当り、従来の絞りの中でも色と柄の適合するものに改良を加えて統一固定したのが、現在用いられている大桝、小枡、立枠の三種である。

上掲花輪南部家御用留帳に記載してある絞りに関連づけられているのがうかがえよう。

また特に郷土の象徴として大正五年に考案創作、意匠登録し、帛紗(ふくさ)用としたのが「花輪絞り」である。

かづの古代紫根染、茜染、染元

栗山文一郎


●説明板:古代かづの紫根染・茜染の染色技法

○灰汁作り(媒染剤)

 低木のサワフタギ(ニシコオリ)の枝葉を焼いて灰にしたものに、熱湯を加えて煮る。それを灰汁樽(あくだる)に移し、灰分を沈殿させた上澄液が下染めで使う灰汁である。

・灰汁の役割

 染料を、繊維に染まりやすく色鮮やかにさせる働きをする。サワフタギの花(春)と実(秋)かつては鹿角に多く自生していた。


○下染

① 布地を灰汁に十分に浸す。

②大気によく乾かす。

①②の作業を繰り返し行う。

 十分に日に当てることが大切で、天気の良し悪しでも回数が変わるため、時には4ヶ月以上も続く根気のいる作業。下染は最も重要な工程である。

 下染の回数は布地の種類・染め上げる色によって異なる。

・紫根染:〈羽二重〉下染120回、〈木綿〉30回

・茜 染:〈羽二重〉下染130回、〈木綿〉50回


○絞り

①下染した布にツユクサを使って絞りの模様(型)を下書きする。

②手縫い絞りをする。

 何回も下染した生地は非常に固く、絞りをするケフさん(文一郎氏妻)は『泣き絞り』と言うほどに難儀な作業であった。この布地の固さが栗山家が絞り模様を4種類とした理由である。


○枯らし法

 下染をした生地は、およそ1年間茶箱や桐のタンスに寝かせ、本染の前あらかじめ一定期間、絞り上げた下染済みの生地を家屋の天井に吊るして置く。

この枯らしにより、染め上がりの色彩に、紫根のもつ本来の味わいが出るといわれる。


○本染

〈原液作り〉

① 紫根または茜根を石臼で搗く。

②搗いた根(※1)を桶に入れ、熱湯を加えてよく混ぜる。③②を麻布で濾す→原液完成(※2) 。

〈本染〉

④布地が十分に浸る量の原液に、枯らした後の布地を入れ、布を動かしながら決まった時間浸したあと液から取り出し風を入れる(温度を冷やす)。

ここまで(①~④)で一工程。この工程を10~12回繰り返す。


※1:搗いた根は捨てずに、10数回の本染工程の度ごとに同じ根を搗いて、根のもつ色素分を完全に抽出するまで使用する。(茜根の場合は6回目以降の工程に多少違いあり)

※2:一回染める度に媒染剤と原液の色素が入れ替わるため、原液は一工程毎に捨て、毎回作成する。

〈水洗・陰干し〉

 本染した布地を水洗いし、陰干しして乾燥させる。アイロンは不要。

〈貯蔵〉

 仕上がり品の色を一層落ち着かせるため、一年以上、桐のタンスなどに密閉して保存する。昔は4年間は開けられなかったという。変色や色飛びを防ぐ、大切な期間である。


○栗山家の絞り模様(全4種類)

①大枡絞り

②小枡絞

③立枠絞り

④花輪絞り

写真提供 角市教育委員



 ※ ※ ※


●菅江真澄遊覧記第4巻305P:むらさきうす

 毛布の里とは、むかし古河のべに在りしが)、いまは毛馬内をうつしていへり。

錦木たつること、むかし□(不明)といひしか、今はさるわさもなう。

狭布ちふものは黒沢氏の家につたへて、古川村にてをりとして織りぬ。

毛馬内の業とて、紫の根染をせり。つねに紫草を搗く臼は、くさくさなから凡(およそ)しかり。(図1)


●『百臼之図』

文化5年(1808)、これは諸国の臼を紹介するものですが、毛馬内の臼として紫根染の染料の植物であるムラサキを臼に入れ、杵でつく様子を描いた『むらさきうす』という図絵があります。

その解説のなかに『舂女歌』(杵でつきながら歌う歌)として下の唄の歌詞を記述しています。


ここは台の坂 ヲヤイテヤ七曲り

中のナア曲り目で ノヲヲヲ

日をヤイくらす ヲヤサキサイノ ソレヤヤイ


という歌詞で、盆踊りを思い出して唄うとあります。



関連アーカイブ
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◆参考書籍

・菅江真澄全集第

・菅江真澄遊覧記第 巻

/菅江真澄 内田武志・宮本常一翻訳

国立国会図書館デジタルコレクション

・秋田叢書 巻

・真澄紀行/菅江真澄資料センター
・各種標柱・説明板


最終更新:2024/4/1