長走


ながばしり

大館市長走長走

 

最終更新:2023/1/21

風穴地帯の冷温の副産物ゆえか、

高山でしか見られない植物群がお手軽に鑑賞できます


🖌菅江真澄の道

  • 来訪:天明5年(1785)9月
  • 年齢:32歳
  • 書名:外が浜風
  • 形式:日記

真澄記:9月22日

 津軽からの道中で、当時北東北で甚大な被害を与えた「天明の大飢饉」、その惨状を克明に記す。(矢立峠→陣場→長走)


📑[コラム1] 真澄記:天明の大飢饉 その惨状
天明の大飢饉:
 天明2~6年(1782~1786)頃まで、全国的に起こった飢饉。
津軽藩内で、1年の間だけでも餓死者が10万人に及ぶといわれた。
主に冷害が原因だが、幕府の無為な対応も飢饉を助長したとされる。

菅江真澄の日記から:
8月10日…

 床前(つがる市森田村)、残雪のように人骨が散乱している。
野晒しのシャレコウベの穴からはススキや女郎花(オミナエシ)が生えていて見るも無残だった。
「あなめ、あなめ(ああ、見ているだけで目が痛い)」と独り言を漏らす。

9月22日…

 長走の宿で、陪堂(ホイトウ=ホームレスの意)の話を聞く。
『馬も人も食った。人の耳や鼻、馬肉は搗いて餅にしたものは特に美味かった。
だが、このことを人に話すことはないだろう。
今あなたに話すのは、話すことで少しでも懺悔の念を示したいからだ。』

飢餓海峡

 『天明の大飢饉』の死者数は全国で数万人規模と伝えられているが、真澄の記録からでもかなり凄惨な光景が伝わってくる。

とりわけカニバリズム描写の生々しさは下手な怪奇小説よりも真に迫っているだろう。

 

 真澄は弘前、青森から北上し当初の目的地である蝦夷に渡るべく7月に青森の善知鳥神社に詣でたが、飢饉の真っ盛りのため「渡海は3年待て」と託宣を受けて南下したのだった。

標柱
📍[コラム2] 標柱データ

前:菅江真澄の道 長走

横:天明五年(一七八五)九月二十二日

長走村に宿をとる。《外が浜風》

秋風の誘いひしまゝに蔓さめて 夜半の砧(きぬた)を現にぞきく

天明の大飢饉の様子を克明に記す。

後:平成四年 北秋田郡青年会

 現在は撤去済み。

過去写真から察するに長走風穴館入り口の坂道に建立されていたものと思われる。


長走風穴館

 未曾有の大飢饉も今は昔。

 現在は国道7号線沿いに風穴館として散策路が解放されている。植物群落の地帯としても楽しむことができる。 

📑[コラム3] 天然のクーラーと植物群落

 風穴は、隙間の多い石英粗面岩の地質から冷風欠随所から冷風となって吐き出し、 真夏でも10℃未満の地温を保っている。

冬期は、逆に温風欠から暖風となって吐き出される。

このような現象により、きわめて狭い範囲でも高山植物が群生している。

 この風穴の冷風を利用して、明治から大正年代に、7つの風欠冷蔵倉庫が建設された。

主に津軽りんごや営林局の種子の貯蔵に利用された。

しかし、電気が普及した昭和30年代頃には、ほとんどの 風欠倉庫は使用されなくなった。

 散策コースはだいたい30分ほど。

途中、風穴の倉庫は3つほど現存しており、入口は封鎖されてますが近づくだけで周辺がヒヤリとしている。

 

高山植物の咲く季節、避暑がてら訪れるのが最適かもしれない(私が行ったのは11月でしたが…)。


Twitter雑葉集



アクセス

  • 駐車場:あり
  • 案内板:あり
  • トイレ:あり
  • 備 考:風穴館は12月1日~3月31日は冬期閉館。詳細はこちら

関連リンク


◆参考文献

菅江真澄全集第一巻 日記Ⅰ

/菅江真澄著

・菅江真澄遊覧記第1巻

/菅江真澄 内田武志・宮本常一翻訳

国立国会図書館デジタルコレクション

秋田叢書別集第5

・真澄紀行/菅江真澄資料センター

・各種説明板


取材日:2017/6/14