三崎山

三崎山(にかほ市)

みさきやま

にかほ市象潟小砂川

 

最終更新:2023/1/10

冒頭のひとこと


🌊菅江真澄の道
  • 来訪:天明4年(1784)9月
  • 年齢:31歳
  • 書名:秋田のかりね
  • 形式:日記

真澄記:9月25日

「剣龍山をくだって吹浦に着く。女鹿の関所、酒田の関所を越えて三崎坂にでた。


(慈覚大師の堂、中略)


 芝刈の人が2人山から出てきて、

「これをたがえて(持って)」

というので背負って籠にあるものを見ると、山葡萄に似た実が満載していた。これはよく効くとして市場で売れるという。」

昼でも暗いぞ

 あ


●三崎山旧街道

 羽州浜街道の難所とされた旧道。

タブの木などが生い茂って昼でも暗い細道は馬の往来も難儀で『駒泣かせ』と呼ばれた。

一里塚跡が残り、 昭和29年に三崎山の採石場で日本最古の青銅刀子が発見された。


  松尾芭蕉が「おくのほそ道」の旅で、今に残る三崎の古道を門人曾良と越えたのは、元禄2年6月16日(1689年・陽暦8月1日)であったが、かねて心にかけていた象潟を訪ねるため、前日酒田を出立したものの激しい雨に逢い、やむなく吹浦に一泊し、当日も雨であったが、芭蕉あ象潟への期待から雨にもめげず、むかし有耶無耶の関があったというこの難所を越えて行ったのである。

タブの木など生い茂る昼なお暗い細道を、病弱の身ながら一歩一歩踏みしめて行った様子が今も眼前に浮かぶようである。

  象潟の勝景にふれる目的を果した芭蕉が再び酒田に帰るため此処を通ったのは2日後の18日であった。この日は快晴で、東には鳥海山がその美しい姿を見せ、西からは快い海風が吹く日であったという。

芭蕉らは行きとは違って足どりも軽くこの峠路を通り過ぎて行ったのではなかろうか。

 

●説明板:一里塚跡

  、慶長9年(1604)に江戸幕府が旅人たちの目印として、日本橋を起点に一里(4km)ごとに設置した塚(土盛り)です。一里塚には榎(エノキ)などの木が植えられ、木陰で旅人が休息を取れるように配慮されていました。

  三崎山旧街道のこの一里塚にも榎が植えられており、往時を伝える貴重な史跡です。

 

●石碑:松尾芭蕉のこと『曽良随行日記』より

  十六日 吹浦を立 番所を過ると雨降出る 一リ 女鹿

是より難所 馬足

番所手形納 大師崎共 三崎共云 一リ半有 小砂川 御領也 庄内預り番所

入には又入手形 塩越迄三リ

 


◆慈覚大師の堂

 

●説明板:大師堂

  大師堂(三崎神社)は、古木鬱蒼としたタブ林の中にある。

貞観年中(今から1200年前)、慈覚大師(姓は千生、名は円仁)の草庵を結ばれた所であって、当時この境内には23もの寺院もあったとのことである。

  大師は、承和2年(835)請益環学生として支那に渡り、仏教学・梵字等を究めて同14年に帰国し、後天台宗の第二の座主となった。

  大師の開山、中興に係わるものが全国に沢山あるが中でも日光・平泉・恐山・山寺及び三崎などはその重なるものである。

  大師はひとり仏教を広めたばかりでなく、処に殖産、興行を起こし、道路を開き、交通の便を計るなど、ここ三崎の難所の大師堂も大師がこの地の開発に力を用いた一端とも見るべきである。

 大師は三崎山に道路を通す傍ら仏教の教えを説いていたが、道路が完成してこの地を去るにあたり、大師を慕う人々のために自分の像を刻み、これを身代わりとしてこのお堂に納めたという伝説がある。

 

・五輪塔

  五輪塔は供養塔であって、しかも塔としては本当の形にされている。

方形、円形などの5つの石を下から地・水・火・風・空と積み重ねて造ったものであって慈覚大師の当時のものもあり、石質からして他所からのものが多い。

⊞ 伝説 内容

 天明4年(1784)9月25日。《秋田のかりね》

慈覚大師の御堂は、疱疹や麻疹を軽くすませ守るというので、子や孫のために

詣でた人が御前でうずくまっていた。

この御堂の下には手長という毒蛇に盗られた人の屍がたくさんあったが、

今は岩が落ち重なって見えなくなったという。

手長足長は人を喰らい、行き交う舟を押し止めた、恐ろしい怪物である。

  坂の半ばを下ると、慈覚大師の御足の跡というのがあり、

石の面に蓮の花のひらいた形と同じだと、道行く人が指差して通っていった。

 



◆アクセス

  • 駐車場:あり
  • 案内板:あり
  • トイレ:あり
  • 備考:

関連リンク

  • 有耶無耶の関
  • 飛島
  • 鳥海山

◆参考文献

・菅江真澄全集第
・菅江真澄遊覧記第1巻

/菅江真澄 内田武志・宮本常一翻訳
・真澄紀行/菅江真澄資料センター
・各種説明板

取材日:2018/05/20