上津野の花


上津野の花

【読み】かむつののはな

  • 大型本、全3丁、絵4図
  • 栗盛記念図書館蔵

菅江真澄著作
 文政4年(1821)3月の日記。断章となり伝う。
大館市十二所から南部領の鹿角にいき花輪の里に至って付近の桜花をみた。
 タイトルの『上津野』とは文献に見られる鹿角の旧表記。

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【文政4年(1821)】

  • 追子沢

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◆収録資料

 


最終更新:2024/4/25


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コメント: 1
  • #1

    らんで (土曜日, 04 11月 2023 22:28)

    こんにちは、私は Wikipedia をメインに文書編集をしている者です。
    さて、この菅江真澄の「上津野の花」は重要な疑問が存在しますので、それを指摘したいと思います。それは菅江真澄と「相馬大作事件」の実行犯である相馬大作との関係です。
    真澄は同書で文化4年4月5日に花輪の小田嶋氏の家に宿泊しそこから鹿角を散策したことを記述していて、それ以降は記述されていません。さて、この小田嶋というのは相馬大作の弟子である関良助の実家の名字です。相馬大作は犯行現場視察のために文化4年3月21日に関良助、徳兵衛を伴って花輪の小田嶋右平太の大和屋に宿泊しており、そしてそこには相馬大作の協力者がいたとされています。また、犯行直前の4月18日頃にもその周辺にいたことが分かっています。
    花輪には小田嶋姓の家が幾つかあるのですが、実際に2人が会合する機会はあったことになります。 菅江真澄は実際に犯行予定人物の津軽寧親に会ったことがある人物で、彼の人となりを知っている人物です。しかも、菅江真澄は老境の68歳、文化3年の冬に突如現在の秋田市からわざわざ危険な積雪が激しい峠を越えて(「雪の山踰え」)藩を越境し南部藩の鹿角に入っています。まるで、追跡者がいるかどうかを確かめるようにです。さらに、菅江真澄はしばらく秋田藩から命じられた仕事の地誌づくりで2年間中断していた日記をこの期間で再開しています。まるで、旅行の様子を誰かに報告するかのようです。確かに実際に2人が会ったかどうかの証拠はありませんが、アリバイや動機ともに充分あるのではないでしょうか?
    また、菅江真澄全集を編集した内田武志は鹿角の人で、このことに気づかなかったことは無かったと思うのですが?