円仁/慈覚大師


円仁/慈覚大師

【えんにん/じかくだいし】

【人物、伝説】

  • 平安時代の僧
  • 出身地:下野国(現 栃木県)
  • 生没年:延暦13年(794)~貞観6年(864)

 貞観年中(今から1200年前)、慈覚大師(姓は千生、名は円仁)の草庵を結ばれた所であって、当時この境内には23もの寺院もあったとのことである。

  大師は、承和2年(835)請益環学生として支那に渡り、仏教学・梵字等を究めて同14年に帰国し、後天台宗の第二の座主となった。

  大師の開山、中興に係わるものが全国に沢山あるが中でも日光・平泉・恐山・山寺及び三崎などはその重なるものである。

  大師はひとり仏教を広めたばかりでなく、処に殖産、興行を起こし、道路を開き、交通の便を計るなど、ここ三崎の難所の大師堂も大師がこの地の開発に力を用いた一端とも見るべきである。

 大師は三崎山に道路を通す傍ら仏教の教えを説いていたが、道路が完成してこの地を去るにあたり、大師を慕う人々のために自分の像を刻み、これを身代わりとしてこのお堂に納めたという伝説がある。


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◆参考書籍


最終更新:2024/4/15