伊能 忠敬


伊能 忠敬

【いのう ただたか】

【人物】

引用:国立国会図書館 肖像
引用:国立国会図書館 肖像
  • 幕府天文方
  • 出身地:上総国(現 千葉県中央部)
  • 生没年:延享2年(1745)~文化15年(1818)

 幕府天文方で測量学・天文学を学ぶ。

享年73。

 明治の陸地測量部(国土地理院の前身)以前に実地測量に基づいた正確な日本地図『伊能大図』を作製したが、測量の旅を始めたのは隠居した50歳を過ぎてからだった。

 文化13年(1816)、全10回の測量旅を終え(忠敬は終盤不参加)、翌年地図作製に着手する。

忠敬は製作中に病没するが、後継により文政4年(1821)に全225図からなる『大日本沿海輿地全図』が完成。

この地図が外交緊張を高めた『シーボルト事件』の一因になるがそれはまた別の話。

秋田の旅

 過去2回の測量の実績が幕府から認められ、第三次測量実施の認可が下りたのは享和2年(1802)になってから。


 秋田では羽州街道を通り往復で通算39日間滞在した。隊員は忠敬の二男含む7人のメンバー編成で臨んだ。また測量中は『勘解由(かげゆ)』と名を変えていた。

菅江真澄との関係

 忠孝と真澄、面識の無い二人だが間接的に関わった人物がいる。

天文学者・相沢文五郎治信能代市の出身で江戸を訪ねて忠敬や奉行・高橋作左衛門(忠敬の師)に師事、能代浦の海岸測量や彗星の記録を行った。後に能代滞在の真澄に同行したという。

測量方法

伊能忠敬は複数の測量方法を組み合わせる事で精度を確保した。

  • 『導線法』
    • 側線に沿って歩くことで距離と方位を測る測量法。
  • 『交会法』
    • 見晴らしの良い建物や山(見立山)などの目標物から方位を測り誤差を修正する。
  • 『天体観測』
    • 観測地の緯度を象限儀で定める。

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◆参考文献


最終更新:2024/4/15