波宇志別神社里宮・霜月神楽

波宇志別神社里宮・霜月神楽

はうしわけじんじゃ・しもつきかぐら

横手市大森町八沢木木ノ根坂

 

最終更新:2024/1/27

冒頭のひとこと


🖌菅江真澄の道
  • 来訪:文政7年(1824)10月
  • 年齢:71歳
  • 書名:雪の出羽路 平鹿郡
  • 形式:地誌、図絵
  • 詠歌:ああ

真澄記:10月20~23日

 真澄は地誌作成のために八沢木巡村調査を始め、波宇志別神社里宮に3日間逗留する。


それ以前にすでに真澄は久保田で波宇志別神社神官の大友直枝と親しくなっており、真澄が八沢木訪問の際に、大友は当社の留守を預かる弟・兵衛に真澄の紹介状を送っている。

 

 逗留中に霜月神楽の見学、保呂羽山縁起や大友家古記録並古物之圖摹、社宝のスケッチなどなど多くのページを割いて記録した。

見出し

 《

📑 真澄記
 ああ

⊞ 真澄と親交のあった大友直枝

おおとも なおえ〔天明5年(1785)~文政18年(1829)〕

 保呂羽山波宇志別神社の神職であったが伊勢松坂の本李宣長に師事した国学者。

 文政5年(1822)、眼病治療のため江戸に上り、治療とともに医術を学び、翌年久保田城下川反で眼科医を開業。

 文政8年(1825)、明徳館に和学方初代取立係に任命さ れた。

 

墓は波宇志別神社里宮の近くにある。

📑 伝説

ああ

⊞ 大友家と守屋家

 神主は代々大友家と守屋家が担っていた。

両家は争いながら祭祀を行っていたが嘉永6年(1853)の火災で守屋家に参籠していた信者が大勢焼死した事件により守屋家は没落のきっかけとなった(百人塚参照)。

 以降は大友家が主となったが、資料館年表によると守屋家は明治2年(1869)まで神主を続けたとある。

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📍 標柱データ

前:ああ

ああ

横:

ああ

後:ああ

 あ



◆霜月神楽

祭事データ

  • 祭日:11月7日(19:00)〜8日(8:00)
  • 形態:神事・奉納神楽
  • 人員:神子、楽人、囃子など複数名
  • 奉納社:保呂羽山波宇志別神社里宮神殿

 波宇志別神社里宮にて行われる約1800年の歴史を持つ寄合神楽。

釜で煮えた湯で清浄を行う『湯立て神楽』の形式で神事を執り行い五穀豊穣を願う。

4人の神子によって三十三番からなる神楽舞が夜を徹して奉納され、朝の6時頃まで続けられる。

(撮影許可済)


●仁王門

 元和5年(1619)、保呂羽山波宇志別神社・守護の神門として建立されたとあるが、神社からはかなり離れた場所に位置している。2体のスリムな仁王像が安置されている。


●神楽殿

 かつては弥勒堂とも本宮とも呼ばれ、こちらもまた里宮と同じ別当が守り毎年5月に神子舞が行われる。

近くに資料館あり。

建立は室町時代末と考えられ、修理の際も木材は当時品を再用している。


●百人塚

 真澄来訪の89年後の嘉永6年(1853)正月3日の晩、波宇志別神社神主の守屋氏宅に保呂羽山山開きの参詣人数百人が止宿。しかし夜半火災がおこり、百余人が焼死する大惨事となった。これにより守屋家は没落。

遺体を埋葬した塚は『百人塚』と呼ばれる。


 秋田県南の小学校では保呂羽山下の『少年自然の家』にキャンプが行われるところが多いと思います。

一泊二日で保呂羽山の登山などが行われています(いました)。

 少年自然の家に向かう途中で集落境に張られる『道切り』を見かけました。

今では徐々に見られなくなった風習ですが、神域近いところでは大事にされてるようでした。



◆アクセス

  • 駐車場:あり(里宮、神楽殿、霜月神楽当日)
  • 案内板:あり
  • トイレ:あり
  • 備考:霜月神楽は神事なので見学の際は初穂料持参の事

関連リンク

  • 保呂羽山縁起
  • 観音寺跡
  • 鉢位山神社
  • 不動瀧
  • 大友 直枝
  • 関連者屋敷跡(里長角助・大友作助・遠藤家)
  • 明徳館跡

◆参考文献・書籍・施設

国立国会御書簡デジタルコレクション

秋田叢書第5巻

菅江真澄読本 第4巻

/田口昌樹/無明舎出版

・真澄紀行/菅江真澄資料センター

・没後百九十年記念展 菅江真澄、記憶のかたち

/秋田県立博物館

・ほろわの里資料館
・各種説明板


取材日:2017/06/13

2018/11/07