奇人!菅江真澄‼︎

ここでは、紀行家「菅江真澄」の人生についてまとめてみます。

生い立ち

 生い立ち 1754(宝歴4)年頃、三河の国(愛知県)に生まれた…らしい。

らしい、というのは真澄が極力自身のことを語りたがらない性格だったからと云われている。

後年、六郷の豪農・竹村治左ェ門に出生地をしつこく問われて真澄はしぶしぶ答えたが、

その場所は全くのデタラメだったという。

 

そんな食わせモンな御仁だから若い頃の素性がよく分かっていない。

ただ記録に残る真澄の広い知識と教養は多くの知識人から学び育まれたことは確かなようだ。度々三河と尾張を行来していた事から旅行癖は備わっていたようだ。その頃は白井英二・秀超・秀雄などと名乗っていた。

 

最初の秋田 30歳の真澄は漂泊の旅に身を委ねる。 信濃(長野県)を経て日本海側を歩き三崎峠から秋田入りを果たす。が、この時は一年と少しで秋田を抜けている。 北海道を目指していたが青森の善知鳥神社で「3年待て」と託宣を受け引き返すのだった。時は天明の大飢饉。

饑饉とアイヌ 累々たる天明飢饉の惨状は真澄に衝撃を与えた。託宣後の3年間は弘前~仙台を旅し1788年、蝦夷に渡り着く。34歳。 洞爺湖有珠山を最北の目的地とし、アイヌの文化を「えぞのてぶり」に纏めた。4年の逗留は真澄の見聞を大いに成長させた。ヒンナヒンナ。

 

津軽、二度目の秋田 38歳。 蝦夷から帰着した後は10年を下北津軽で過ごす。この頃には白井(真澄の旧名)の名も音に聞こえるようになり文人との交流も増えていく。本草学の知識を活かし藩の採薬事業を手伝う事もあった。正に遊覧の旅だ。 そして48歳。永住の地、秋田へ…

 

そのコミュ力 なぜ長く旅を続けられたのか。 藩主佐竹義和公のバックアップもあったと思われる。 まず真澄が村へ訪れる時は肝煎(村長)に渡りをつけた。村から村へ、肝煎の紹介で次の目的地でも歓迎を受けた。 それが受け入れられたのも真澄のコミュ力の高さが窺える。

著作 和歌や日記、随筆形式の著作もあるが高い資料性は図絵によるところが大きい。 著は明徳館に献納、死後は方々に形見分けされたが多くは失逸や戦火で焼失されたのが悔やまれる。未発見本も多く現在見られるのは後世の写本が主である。 でも和歌の評価は散々である。

黒頭巾の謎 真澄は黒頭巾を人前で脱ぐことはなかったという。寝食はおろか殿様に拝謁する時でさえも。 若い頃に受けた刀傷を隠すためか。患った疱瘡の頭皮を隠すためか。 いずれにせよ頭巾黒はトレードマークとなり「常冠(じょうかぶり)の真澄」として名が知れ渡った。

その最期 県内隅なく巡村した真澄だが、唯一仙北だけは手薄だ。訪れる前に病没したからだ。 死地は角館とも田沢湖梅沢とも説が異なる。墓碑は弟子(後の養子)の鳥屋長秋によって秋田市に建立。墓に刻まれた享年も七十六、七歳と曖昧だ。 死して尚その身留まるを知らず。