奇人!菅江真澄‼︎

ここでは、紀行家「菅江真澄」の人生についてまとめてみます。

しかしながら中の人は・歴史や民俗学などをキチンと修めてる立場でもないので付け焼刃感は否めませんが、がんばって研究していく所存です。



はいはい予防線予防線。

新たに分かったことなどありましたら随時追記していくのでどうぞよろしくお願いします。

●生い立ち

 1754(宝歴4)年頃、三河の国(愛知県)に生まれた…らしい

らしい、というのは真澄が極力自身のことを語りたがらない性格だったからと云われている。

後年、六郷の豪農・竹村治左ェ門に出生地をしつこく問われて真澄はしぶしぶ答えたが、

その場所は全くのデタラメだったという。



なんかめんどくさい人って印象ですねー。 

 そんな食わせモンな御仁だから若い頃の素性がよく分かっていない。

ただ記録に残る真澄の広い知識と教養は多くの知識人から学び育まれたこと、

また度々三河と尾張を行来していた事から旅行癖は備わっていたようだ。

その頃は姓を白井、名を英二・秀超・秀雄・幾代治・知之・などと名乗っていた。

名前変えすぎ。

◆若き菅江真澄が師事した人物

浅井図南(あさい となん)

1706〜1792

尾張藩医師。本草学を学ぶ。

薬草採集の登山に同行したりした。

内山真竜(うちやま またつ)

1740〜1821

遠江(静岡県)の学者。

国学(日本古代の文献の考証などの学問)や和歌を学ぶ。

植田義方(うえだ よしえ)

1734〜1806

吉田(愛知県豊橋市)の商人。

真澄が故郷を離れてからも粗品や文通を送ったりしたことから、

真澄がもっとも親しくしていた人物だと思われる。

丹羽嘉言(にわ かげん・よしとき)

1742〜1786

名古屋の儒学者、画家。

真澄の画風に大きく影響を及ぼしたと思われる。

自画像から見るにいかにもアナーキーな感じ。

洞月上人(どうげつしょうにん)

1717〜1808

元洗馬(長野県塩尻市)長興寺住職。

旅以前からの旧知で、真澄が信濃に立ち寄った際に滞在し和歌を詠み合う。

旅に先立ち真澄へ「和歌秘伝書」を授ける。

※人相画はイメージです。

●信濃〜出羽、一度目の秋田

 30歳の真澄は漂泊の旅に身を委ねる。

信濃(長野県)を1年ほどかけて縦断したのち日本海側を歩き三崎峠から秋田入りを果たす。

が、この時は1年と数ヶ月で秋田を抜けている。

この時点での旅では秋田は通過点に過ぎず、目的地は別にあったようだ。

それはズバリ蝦夷地(北海道)である。

●天明の大飢饉

 天明3年(1783)から翌年にかけて東北では未曾有の大飢饉に見舞われた。

この時 八戸藩(青森)と南部藩(岩手)で死者が9万人に及んだという。

道端には餓死した骸が累々とし、暴徒が火を放ち焼け野原となった惨状は真澄に大きく

衝撃を与えた。

この世の地獄であるがゆえに青森の善知鳥神社に詣でたとき「3年待て」と託宣を受けた。

大飢饉が落ち着くまで待てとの事なのだろう。

 

 真澄はいったん青森を引き返し、言葉通り3年間は陸奥(仙台、松島まで)を

旅して過ごすことになる。

●アイヌの旅

 天明8年(1788)34歳。

律儀に3年待って宿願の北海道へ渡る。

18世紀当時の北海道は、現地人のアイヌが暮らす蝦夷地と

松前藩が統治する和人地に分かれた渡島半島には明確な境界線があった。

処遇をめぐってアイヌ側の反乱もたびたび起こっていたようである。

 

 真澄は滞在期間の4年間のほとんどを松前藩で過ごしたが、洞爺湖の有珠山と太田山の

太田権現にも登拝している。

当地へ向かうには境界線の厳重なる許可が必要だったはずだが、どうやって越えることができたのか。

 

滞在中、文字を持たない文化のアイヌと交流を深め、「えぞのてぶり」に記録を纏めた。

ヒンナヒンナ

 ●下北津軽の旅、二度目の秋田

 寛政4年(1792)、38歳。

蝦夷から帰着した後は10年を下北津軽で過ごす。

蝦夷地という旅の目的地を果たした真澄は、その後の旅路に変化をもたらす。

すなわち特に目的地を定めず、ひとつの拠点に身を置きつつ方々に足を伸ばす、

というスタイルにシフトしていった。

 

 この頃には白井(真澄の旧名)の名も音に聞こえるようになり文人との交流も増えていく。

本草学の知識を活かし藩の採薬事業を手伝う事もあった。

正に遊覧の旅だ。

 

 

そして48歳。永住の地、秋田へ…


秋田については探訪アーカイブでこまかに

記事にしていきますね〜。

 なぜ長く旅を続けられたのか。

秋田藩9代藩主佐竹義和公のバックアップ、佐竹家家老の梅津一族の仲介もあったと思われる。

 そもそもまず真澄が村へ訪れる時は、肝煎(きもいり、村長のこと)に渡りをつけたという。

村から村へ移動する時も、肝煎から肝煎の紹介で次の目的地でも歓迎を受けたというプロセスがある。

 

それが受け入れられたのも真澄の人柄の良さ、コミュ力の高さがあったからではなかろうか。

 

 さりとて決して楽な旅ではなかったろう。

宿泊を断られることもあったろう。

野宿も多かったろう。

 

しかして己のことは黙して語らず。

その不思議な性質に魅力を感じてしまう。

●著書と図絵について

 真澄の記録は和歌や日記、随筆など形式も多岐に渡るが、高い資料性は

やはり図絵によるところが大きい。

 著作を順に追っていくと、画力の上達っぷりも見て取れるのが面白い。

30才に初めて秋田に訪れた頃の初期スケッチ集「粉本稿」と後期の地誌と見比べても

その画力の違いはダンチである。

 真澄は旅をしながら地元の画家に師事したりしたのも一因であろう。

ただし主に風景画が主体で人物画は終始苦手だったようだ。

それが証拠に人物を描く風俗(てぶり)画などは別に頼んで描いてもらっている項も多い。

 著作は明徳館に献納され、死後は方々に形見分けされたが多くは失逸や戦火で焼失されたのが悔やまれる。

未発見本も多く現在見られるのは後世の写本が主である。

でも和歌の評価は散々である(真澄フォロワーの柳田國男内田武志ですら酷評している)

●黒頭巾の謎

 真澄は黒頭巾を人前で脱ぐことはなかったという。

寝食はおろか野良仕事をしてる時も、殿様に拝謁する時でさえも脱がなかった(異説はあるが)。

若い頃に受けた刀傷を隠すため、という説。

患った疱瘡の頭皮を覆うためか、という説。

 陳舜臣の小説「人物・日本史記」の菅江真澄の一編に、

宿泊先で寝てるときも頭巾を外さない真澄に

こっそり頭巾を脱がそうとする青年の話がある。

 

 いずれにせよ頭巾黒はトレードマークとなり「常冠(じょうかぶり)の真澄」の異名で知れ渡った。

名が知れ渡れば旅もしやすくなる。

黒頭巾は案外、真澄の旅の処世術であったのかも知れない。

●最期

 秋田藩内くまなく巡村した真澄だが、唯一仙北(田沢湖・角館地域)だけは記録が手薄だ。

すべて巡村しきる前に病没したからだ。

…ということは御年75を過ぎてもまだ旅を続ける気が満々だったらしいが、

晩年の傑作「出羽路3部作」の完成の途中であるから、さぞ無念だったろう。

 奇妙なことに没した場所が諸説あり散っている。

現在では角館・神明社を「終焉の地」

田沢湖・梅沢村を「絶筆の地」とし、

そしてなぜかお墓はそこより80km離れた秋田市寺内に建立されてある。

 

こりゃいったいどういうことなのか。

 死地は角館とも田沢湖梅沢とも説が異なる。

一応、書籍関係での定説はあるが、

いざ地元取材をしてみるとそれぞれ主張が異なっているので筆者としては

これについて深く言及は留める。

新たなる資料の発見が望まれる。

 

 墓碑は晩年の弟子(後の養子)の鳥屋長秋によって秋田市に建立。

鳥屋が久保田の人間だから、なるたけ自分の近くに弔ってやりたいという願いからか。

真澄は死後も角館、田沢湖、久保田と回り旅をやめることは無かったらしい。

しかし墓に刻まれた享年も七十六、七歳と曖昧だ。

最期まで真澄は己を他人に明かすことはなかった。初志貫徹。

 

最期まで死して尚その身留まるを知らず。



菅江真澄についてはこれからも取材を続けていきます。
なんぞ有益な情報があったら教えてくださいませませ。


イラスト:ゑびす